実際の就活生が【何者】を読んで感じたこと
はじめに
何者とは朝井リョウが2011年11月に書き上げた本で、就活を迎えた4人の若者を中心に、就活中の葛藤と闇について描いた作品で、今年映画化もされた作品だ。
私は去年から今年にかけて就活をしたいわゆる2017年卒世代で、この作品を読んだ時に痛いほど気持ちがわかった。
若者世代のSNS活用
この作品中のSNS(特にTwitter)の活用のされ方はとてもリアルで独特だった。
普段はみんな普通に生活しているはずなのに、何かしらのイベントがあればSNSに投稿し、まるで特別な生活をしているかのように見せたがった。
私自身イギリスに留学していた時に、外国人5人くらいで話していて、知り合いの日本人がたまたま通ったので、声をかけて6人で話していた。
その知人はとてもシャイであまり会話に参加できていないような様子だったが、後でその人のSNSを見るとあたかも親しい友達ができたように投稿をしていて、驚いたことがあった。
そんなに自分を大きく見せないといけないのだろうか。身の丈の自分を表現することはそんなに恥ずかしいのだろうか。
誰かと比べること
作品中の主人公は、あまり自分の意見を言う子ではなかったが、実は影では周りの努力を笑って、斜め上から評価しているような人物だった。
就職活動中は誰もが神経を研ぎ澄ませ、周りの状況をいつも以上に認識したがる時期だ。
誰かが先に最終選考まで進んだと聞かされると、ドキドキするし、その会社のことを必要以上に調べてみたりする。
特に自分と比べ突き抜けて優秀な子に対してはそういったことはないが、どうしても学生時代、自分と同じペースで歩んできた子に対して、嫉妬だとか自分より良い会社に就職してほしくないと、心のどこかで思っていることがある。
それはいつからか、社会に見えないレールが引かれていて、みんな同じ軸を持ち始めているからではないだろうか。
大手企業に勤めて、お金持ちになって、26歳くらいで結婚して、というのが成功者。という考えが大っぴらに言う訳ではないが、共通認識として横たわり始めている。
SNSが生まれて、他人とより比較しやすくなって、レールの上で蹴り落としあってるという構図が構築されつつある。
心の中で思いを留めること
しかし、実際に成功するために(何が成功かはそれぞれ違うということは置いておいて)活動することは難しい。
作品中では舞台を作りたいという夢はあるが、いつも自分の中でアイディアを留めているAが登場する。一方で、泥臭くさい姿をさらけ出し、未熟なアイディアと批判されれながらも月一で舞台公演をするBがいる。
Aは公演に来てくださる方に、20点の完成品を見せるのは嫌だというが。後に、アイディアが自分の中にあるうちは全部100点なんだと批判される。
その通りだ。この話は痛いほどわかる。
現実世界にアイディアが出て、他人に評価されることで価値が生まれる。
だが、理解するのと行動することは全く違ってくる。
もし自分が100だと思っていたものが20で評価されてしまった時は、物凄く傷つく。
それはどこかアイディアの否定が自分自身の否定に感じてしまうからだ。
そんな痛みを繰り返すBは本当に偉い。
初めはダメでも、ダメだったところを反省して、次は5点でも向上させることができれば、いつかは100点に届くのではないだろうか。
何者になる
この作品は就職活動を通して、何者になっていくのか問いかけているように感じた。
今までは学生という社会的身分の中で、勉学というやるべきことを与えられていた。
何かに従って生きるのは自分で決断しない(リスクを負わない)ので楽だろう。
だけど、社会に出てこれからは枠なんて存在しない。これからは自分の意思で何者かにならなきゃいけない。
SNSのおかげで発信はしやすくなったけど、同時に同じ価値観を受信しやすくなってしまった。
しかし、そんな誰かと同じレールの上で生きていくことが、何者になるということの結論でいいのだろうか。
自分自信で何かを決断して行動していくことは、確かに痛みを伴うけど、そんな行動の先に何者かになるという本当の価値があるのではないだろうか。